未知への恐怖を「対話」に変える:社会デザインが架ける新しい橋
「もし、大切な家族や自分自身が認知症になったら?」 超高齢社会を生きる私たちにとって、それは避けては通れない問いです。しかし、多くの人が抱くのは「何も分からなくなる」「関わるのが怖い」という、正体の見えない不安ではないでしょうか。この「怖さ」の正体は、当事者が生きている世界と、私たちの常識との間にある圧倒的な「情報格差」にあります。
累計20万部を突破したベストセラー書籍『認知症世界の歩き方』。このたび、その知見を身体全体で味わう「認知症世界を歩いてみたら。展」が始動します。なぜ今、単なる知識ではなく「体験」というデザインが必要なのか。社会課題をクリエイティビティで解決する「社会デザイン」の視点から、このムーブメントの真意を紐解きます。
「知識」を脱ぎ捨て「体験」へ:情報デザインが可視化する「当事者の心象風景」
これまでの認知症理解は、医学的な症状名やケアの手法といった「外側からの知識」が中心でした。しかし、issue+design代表の筧裕介氏が取り組んだのは、徹底的な「当事者視点」の可視化です。約100名へのインタビューを通じて、彼らが日常で遭遇する困りごとを「旅行記」として再構築したのです。
今回の展示は、この情報デザインをさらに一歩進め、頭での理解を「身体知」へと昇華させます。医学的な症状を単なるデータとして提示するのではなく、人間のストーリーとして翻訳し、誰もがアクセス可能な「体験」へと変換する。これこそがデザインが果たすべき、共感を創出するための役割です。筧氏は、このプロジェクトの核心を次のように語ります。
「認知症を『知識』として理解するのではなく、認知症のある方が生きている世界を『体験』として共有することで、人々の認知症に対する見方そのものを変えていく」
文字を追うだけでは越えられなかった「他人事の壁」を、五感を通じた体験が溶かしていく。脳の仕組みを学ぶのではなく、彼らの心の揺らぎを「自分自身の感覚」として受け取ること。それが、認知症観をアップデートする最大の鍵となります。
あなたは「旅人」になる:蜃気楼のように揺らぐ、五感のハプニング
本展の最大の特徴は、来場者が単なる観客ではなく「認知症世界の旅人」として会場に足を踏み入れる設定にあります。会場には書籍で描かれた「旅行スケッチ」の世界が広がり、記憶や時間、空間、身体感覚の揺らぎが、まるで「蜃気楼のように移ろう風景」として具現化されています。
- 五感を揺さぶる演出: 距離感がつかめない戸惑いや、過去と現在が混濁する感覚を、視覚や身体感覚を通して疑似体験します。
- 「症状」を「ハプニング」へ: 外部から見れば不可解に見える行動も、旅の途中で起きる「摩訶不思議なハプニング」として捉え直すと、そこにある理由や感情が見えてきます。
「怖いもの」として遠ざけていた対象を、未知の景色が広がる「旅先」として捉え直す。この視点の転換は、当事者に対する眼差しを「憐れみ」や「恐怖」から、「想像力を持って共に歩む姿勢」へと劇的に変容させます。
「共感」を社会の資産へ:全国へ波及するライセンスモデルの衝撃
このプロジェクトが真に革新的なのは、一過性のイベントに留まらず、社会の仕組み(システム)を変えようとしている点です。2024年12月に設立されたNPO法人ボーダレスファウンデーションとissue+designの連携により、この展示を「ライセンスモデル」として全国に展開する戦略が取られています。
これは、社会課題解決のノウハウを「独占」するのではなく、地域の自治体やNPOが活用できる「社会の共有資産」へとシフトさせる試みです。2026年3月には東京(3月9日)と福岡(3月25日)でリリース記念イベントが開催され、5月1日から7日には神奈川県の鎌倉芸術館での展示が決定しています。NPO法人ボーダレスファウンデーション代表理事の田口一成氏は、この仕組みがもたらす未来をこう展望します。
「認知症に対する社会の固定観念を塗り直す……この企画展が、認知症を『理解する入口』となり、来場者一人ひとりが自分ごととして考えるきっかけになることを願っています」
特定の場所だけで行われる「特別なイベント」から、日本中のあらゆる街で「当たり前の景色」として認知症を体験できる環境へ。ライセンスモデルという仕組み化こそが、社会実装を加速させるエンジンとなるのです。
世界、そしてスクリーンへ:2027年に向けて加速する共感の環
『認知症世界の歩き方』が巻き起こす波紋は、すでに日本を越え、中国、台湾、韓国といった東アジア諸国にも広がっています。超高齢社会という人類共通の課題に対し、デザインとエンターテインメントの力が国境を越えて機能し始めているのです。
さらに、物語は2027年春公開予定の映画化プロジェクトへと続きます。医療や福祉の枠組みを飛び出し、アート、カルチャー、そしてエンターテインメントとして認知症が語られる。これは、当事者が「患者」というレッテルを剥がされ、一人の「表現者」や「旅人」として社会と繋がり直すための、極めて文化的なアプローチです。
結び:新しい視点を手に入れた、その先の社会
認知症を「社会全体の課題」として捉え直し、知識を体験へと変える。この挑戦は、認知症のある方々のためだけのものではありません。自分とは異なる感覚や認知を持つ他者の世界を想像し、尊重し合う。それは、あらゆる多様性が共存する豊かな社会を築くための、必須のトレーニングでもあるのです。
もし明日、あなたの目の前の景色が少しだけ揺らぎ始めたら、あなたはどんな世界を歩きたいですか?
「認知症世界」は、どこか遠くにある異国の話ではありません。それは、私たちが今日歩いているこの道が、少しだけ違うレンズを通して見えているだけのことなのです。
【5月】認知症世界を歩いてみたら。展
会期:5月1日(金)〜5月7日(木)
開場時間:初日15:00〜19:00、中日10:00〜19:00、最終日10:00〜15:00
会場:鎌倉芸術館(神奈川県鎌倉市大船6丁目1−2)

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